書籍紹介

前世界銀行副総裁が語るリーダーシップの真実

はじめて訪れたエジプトの貧民街。少女ナディアが自分の腕のなかで息をひきとったとき、自分の人生が決定的に変わった――。貧困や悪政と闘いつづけた23年間。それは、この世界を変えたいと願う、あらゆる職場のリーダーたちと共に歩んだ道のりだった。農民や村長、貧民街の女性たちや売春婦、学生、社会起業家、銀行家、ジャーナリスト、政治家、中央銀行総裁、将軍や国王に至るまで……「国づくり」の現場で出会ったリーダーたちの姿を、前世界銀行副総裁が情感込めて語った珠玉の回想記。

雑誌『選択』好評連載「思い出の国、忘れえぬ人々」(2005年1月~2008年12月)待望の単行本化。


著者:西水美恵子

解説:田坂 広志

四六判 上製 320ページ 本体1,800円+税 2009年4月発行

ISBN10: 4-86276-054-6 ISBN13: 978-4-86276-054-8

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はじめに 全文公開!


あれは、たしか一九八〇年の春のことだった。当時、経済学を教えていた米国プリンストン大学の、研究室での昼下がり。訪れる学生の姿もなく、論文の構想を練るには最適で、大好きな時間だった。その静寂を、一本の電話が永遠に破った。

世界銀行のチーフ・エコノミストとして、開発政策と研究所を担当していた著名な経済学者、ホリス・チェネリー副総裁からだった。その年の夏から始まるサバティカル(研究休暇)の一年を、世銀の研究所で過ごさないかという誘いだった。

経済開発論は部門外もいいところで、興味さえなかった。首都ワシントンにいる夫の勤務先でもあるIMF(国際通貨基金)は、熟知していた。が、IMFと姉妹機構の世銀が、いったい何をする銀行なのかさえ知らなかった。躊躇して、しばらく考えさせてもらったが、「好待遇で好きな研究に没頭できるうえ、単身赴任の時間的なロスがない一年間は、断るには良すぎる」と答えた。

チェネリー副総裁は、そんな不真面目な私を笑いながら、契約にひとつの条件を出した。

「一国でもいい。発展途上国の民の貧しさを、自分の目で見てくるように……」

プリンストンの修士課程を終えて世銀で活躍していた教え子が、それならエジプトがいいと誘ってくれた。彼が率いる開発五カ年計画調査団に同行して、首都カイロへ飛んだ。

週末のある日、ふと思いついて、カイロ郊外にある「死人の町」に足を運んだ。邸宅を模す大理石造りの霊廟がずらりと並ぶイスラムの墓地に、行きどころのない人々が住み着いた貧民街だった。

その街の路地で、ひとりの病む幼女に出会った。ナディアという名のその子を、看護に疲れきった母親から抱きとったとたん、羽毛のような軽さにどきっとした。緊急手配をした医者は間にあわず、ナディアは、私に抱かれたまま、静かに息をひきとった。

ナディアの病気は、下痢からくる脱水症状だった。安全な飲み水の供給と衛生教育さえしっかりしていれば、防げる下痢……。糖分と塩分を溶かすだけの誰でも簡単に作れる飲料水で、応急手当ができる脱水症状……。

誰の神様でもいいから、ぶん殴りたかった。天を仰いで、まわりを見回した途端、ナディアを殺した化け物を見た。きらびやかな都会がそこにある。最先端をいく技術と、優秀な才能と、膨大な富が溢れる都会がある。でも私の腕には、命尽きたナディアが眠る。悪統治。民の苦しみなど気にもかけない為政者の仕業と、直感した。

脊髄に火がついたような気がした。

帰途の機上では一睡もできず、自分が受けた教育は何のためだったのか、何をするために経済学を学んだのかと、悩んだ。ワシントンに近づき、機体が着陸体勢に入っても、鬱々としたままだった。が、車輪がドシンと音を立てて滑走路に接した瞬間、目の奥に火花が散った。結論が、脳に映った写真のように、はっきり見えた。学窓に別れを告げ、貧困と戦う世銀に残ると決めた。

契約を延長してくださいと頭を下げに行ったチェネリー副総裁は、「薬が効きすぎたかな」と、また笑った。「ナディアの死を無駄にしないように」と添えてくれた彼の言葉は、いまだに脳裏に焼き付いている。

「世銀の使命は、貧困のない世界をつくること。この使命を背負う仕事の究極は、正義の味方になることだ。政治力のない貧民のために正しいことを正しく行う、勇気あるリーダーたちの味方になる。この精神を本気で貫かないと、世界一流の知識や技術の提供が無駄になる。融資は途上国の借金を増やし、国民を苦しめるだけに終わる。やる気があるようだな」

転職の報告に、父が怒った。「教壇の神職から、金貸しになり下がるのか!」

それからの二十三年間は、「貧困のない世界をつくる」夢を追う、毎日だった。

いざ入行してみて、チェネリー副総裁が諭した「正義の味方」の精神が、多くの世銀職員の姿勢に浸透していると知り、驚いた。自然にナディアが仕事の尺度になった。何をしても、ナディアに問うのが習慣になった。「生きていたら喜んでくれるかしら。あなたを幸せにできるかしら……」

さらに驚いたのは、世銀を築いた国際法が、その精神を保護していることだった。キューバと北朝鮮を除く全世界の加盟国が調印した、世銀の「憲法」ともいえる国際条約に、守られていた。

ここで、大切なことをひとつ。この本を手にした読者のみなさんは、自分が世銀の株主だという事実をご存知だろうか。

世銀は、国連の諸機関や多くのNGO(非政府組織)など、寄付金に依存する援助機関とは種類が違う。ひとさまの大切なお金を預かって運営し、いろいろなリスクを管理して業務成果をあげ、運営経費を捻出し、返すお金は約束どおりきちんと返済する。つまり正真正銘の金融業で、国際法上、加盟国の国民が株主である。日本でも「世銀債」と親しまれている債券などを通じて、市場から安く借り、市場信用がないに等しい発展途上国の良い国づくりのために、できるだけ安く貸すことに専念する。

株主と市場の信用が命の銀行だ。その信用を第一にと管理する世銀の金融体制は、もちろん「憲法」を厳守する。だから、「正義の味方」になる意志があれば、庇護し、可能にするよう仕組まれてある。

人間が成す組織なのだから、決して完璧ではない。間違いも、失敗も、多い。しかし「正しいことを正しく」行う姿勢を貫く信念さえあれば、「憲法」と金融管理の体制が守ってくれる。世銀はそういう希有な職場だった。

今は亡き父の怒りが解け、喜びに変わるまで、時間はかからなかった。

その世銀での現場体験を振り返ってみると、やはり、権力者の腐敗と悪統治を敵にまわして戦うリーダーたちの、補佐に徹した年月だった。自分の仕事は「憎まれ役」だと笑って楯になり、「どうせやるなら大々的に」と、喜んで喧嘩を買い続けた。

べつに喧嘩好きでもなければ、特別変わったことをしたわけでもない。現場に携わる心ある世銀職員なら、誰でも似たような仕事をしている。目立つ、目立たないに関わらず、大小様々な「憎まれ役」の実績を、今日も黙々と積み重ねている。

貴重な学習をさせてもらった日々でもあった。特に、貧村やスラムの視察より家族の一員としてホームステイをするのが好きだった。貧民の生活など知ろうともしない為政者を圧倒する目線や情報が、手に入るからだ。もちろん、政治の最前線だから、喧嘩の種は拾いきれないほどある。自分自身の草の根体験は、改革への説得力をつける。貧しさに喘ぐ株主、すなわち「我が家族と大勢の親類縁者」に励まされるから、権力者との闘いに尻込みをする暇などなかった。

悪政が日常茶飯事な発展途上国の草の根で、稀に、世銀と同じ夢を一心に追うリーダーに出会うと、無上に嬉しくてよく泣いた。話や形は変わっても、皆それぞれのナディアを胸に抱いていた。ナディアが「正しいことを正しく行う」情熱を煽ぎ、情熱が信念の糧となり、ハートが頭と行動に繋がっていた。心身一体、常に一貫した言動だからこそ、民衆の信頼を受け、人々を鼓舞し、奮起していた。

あらゆる職場で活躍する人々だった。農民や村長、貧民街の女衆、売春婦、学生、福祉事業家、NGO活動家、社会起業家、銀行家、ジャーナリスト。少数の政治家や、中央銀行総裁、将軍さえいる。そして、類あっても比のない、ひとりの国王も……。様々な闘いを共にした同志たちだが、心の底から敬愛してやまない恩師でもある。

皆一様に、こう教えてくれた。貧困解消への道は、「何をすべきか」ではなく、「すべきことをどう捉えるか」に始まると。その違いが人と組織を動かし、地域社会を変え、国家や地球さえをも変える力を持つのだと。

この本は、そういう本物のリーダーたちが、ある時は縦糸になり、またある時は横糸になって編み上げてくれた、思い出の絨毯だ。

国づくりは人づくり。その人づくりの要は、人間誰にでもあるリーダーシップ精神を引き出し、開花することに尽きると思う。

未来の社長や首相を発掘せよなどというのではない。育児や家事に勤しんでも、家庭の外に出てどのような職に就いても、リーダーの仕事には夢と情熱と信念がある。頭とハートが繋がっているから、為すことが光る。心に訴えるものがあるから、まわりの人々にやる気と勇気をもたらす。そのリーダーの善し悪しが、開発途上国の発展に決定的な差を生む。

日本の発展にも同じことが言える。悲しいことに、我が国は、金がなければ良い教育も医療も望めない、まるで途上国のような国になりつつある。戦後の高度成長が解消したはずの貧困が、ふたたび私たちのまわりに見えてきた。ガード下や公園に住むホームレスの人々……。食費をつめても薬代を払えない若者やお年寄り……。公立学校の費用にさえ苦労する母子家庭……。ナディアのような薄命の子など生まれない国だと、いったい誰が断言できよう。

だから世銀を辞めた時、もうひとつの夢が生まれた。縁あったリーダーから学んだことを、母国の未来を担う人々に伝えたいと……。

私にとって、リーダーと政治の正しいあり方を考え、追求するきっかけを作ってくれたのが、ナディアだった。この本が、より多くの同胞の、特に日本の若者の心のなかで、小さなナディアとして生まれ変わることができたらと、夢みる。

愛する母国の国づくりのために……。

平成二十一年正月 英国領バージン諸島にて

『国をつくるという仕事』の舞台


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目次


はじめに

まるで一卵性双生児[インド、パキスタン]

チャンドリカの癖[スリランカ]

ああこの国はどうなる……[ネパール]

カシミールの水[インド、パキスタン]

偶然[トルコ、バングラデシュ、スリランカ]

人づくりの奇跡[ブータン、パキスタン]

男尊女卑?[インド、スリランカ、バングラデシュ]

雷龍の国に学ぶ[ブータン]

悲しい……[パキスタン、スリランカ]

売春婦「ナディア」の教え[バングラデシュ、インド]

改革という名の戦争[パキスタン]

神様の美しい失敗[モルディブ]

夢は大きく[ハンガリー]

遠すぎる和平[スリランカ]

神の試練[パキスタン]

ヒマラヤの橋[インド]

退屈で静かなイノベーション[バングラデシュ]

マレが燃えている[モルディブ、ブータン]

白い革命の夢[インド]

返歌[ネパール]

ヒ素中毒に怒る[バングラデシュ]

歩くタラヤナ[ブータン]

「羅生門」[ブータン]

殺人魔[インド]

サーバント・リーダー[パキスタン]

竜のからくり[バングラデシュ]

構造的な障害[インド]

戦いを略す[ネパール]

川も干上がる[アフガニスタン]

女神の宿題[インド]

森の民に幸あれ[インド]

飢饉の呪い・ダムの呪い[インド]

女の特権大いばり[南アジア諸国]

殺生禁断の戦略[インド、ブータン]

水際立つ……[ブータン]

真のリーダーの抱く夢 ―― 解説に代えて 田坂広志

スリランカ・クマラトンガ大統領(中央)との夏休み スリランカ・クマラトンガ大統領(中央)との夏休み。当時の大蔵大臣(左から2人め)と中央銀行総裁(右から2人め)も加わって
(チャンドリカの癖)

「カトマンズは遠い」とつぶやく老女(左)を慰める筆者 「カトマンズは遠い」とつぶやく老女(左)を慰める筆者
(ああこの国はどうなる・・・・・・)

スリランカの村の小学校を飛び入り訪問。1年生の臨時英語教師になりすます  スリランカの村の小学校を飛び入り訪問。1年生の臨時英語教師になりすます 
(偶然)

世銀退職の報告に羨ましそうな雷龍王4世(中央)。 世銀退職の報告に羨ましそうな雷龍王4世(中央)。首都タシチョゾン城謁見室で、夫のピーター・ウィッ カム氏(右)と
(雷龍の国に学ぶ)

マヤル村の女性たちが架けた橋 マヤル村の女性たちが架けた橋
(ヒマラヤの橋)

バングラデシュのミクロ金融グループを訪問した筆者 バングラデシュのミクロ金融グループを訪問した筆者
(退屈で静かなイノベーション)